手造り桜葉餅

西伊豆を旅する/沢野ひとし

イラストレーター・沢野ひとしさんが、これまでの人生を振り返り、今、もう一度訪れたい町に思いを馳せるイラスト&エッセイです。再訪したり、妄想したり、食べたり、書いたり、恋したりしながら、ほぼ隔週水曜日に更新していきます。

 静岡県・西伊豆の松崎町を四十数年ぶりに訪れた。自宅から車で約三時間という早さであった。妻は車を運転しながら、伊豆の思い出を話している。
 長いこと養護学校の教師をしていた妻は、体の不自由な生徒たちを引率しながら、土肥にある夏季施設に何度か来ていた。子どもたちの面倒を見るのに忙しく、景色を眺める余裕は全くなかったという。
 到着した高層のホテルの部屋は遮るものがなく、目の前に海と空が一面に広がり、思わず両手を広げて声を上げた。

入江のふたり


 初めて松崎町へ来たのは、まだ娘が幼稚園児の頃である。「海を見せてあげたい」一心で電車やバスを何度も乗り継ぎ、海の近くの民宿に二泊した。まだおしめが取れていない二歳の息子を背負った妻は、汗だくになりながら、両手に大きな荷物を抱えていた。私のほうは山用のザックに一家四人分の下着や海水着を詰め込み、その荷物の多さに「もっと近場の海水浴場でもよかった」と反省と後悔しきりだった。

 海が見える宿が売り物の民宿は、窓を開けても、松林の奥にチラリと海が見えるだけであった。扇風機が音をたてて回っている狭い部屋で、子どもたちは疲れているのか、泣いてばかりいた。

まりや書店

 ホテルを出て近所の商店街を散歩して、漁協直売所の近くに行ってみた。思い出の宿にも行ってみたかった。だがかつての民宿を探し当てることはできなかった。妻も記憶が曖昧なうえ、あたりは似たような家並みが続き、ついに見つけることはできなかった。

 もう一度ひっそりとした商店街に戻ると、妻は
「あっ、この本屋さん覚えている」と嬉しそうに指さした。
 娘の“果物の絵本”をここで買ったという。入口のガラス戸を開けて、そのまりや書店に入って行くと、人の良さそうなおばさんがレジの前に座っていた。
 話をしてみると、なんとこの三月に閉店するというのだ。戦後すぐに店を開き、七十三年も続けてきた。松崎町の歴史と文化に多くの貢献をしてきた書店である。三月に店を閉めるために、本棚はガランとしていた。
 旅の記念にと梶井基次郎『檸檬(れもん)』の文庫本を購入した。少年時代から何度となく読みかえしてきた、救いの一冊であった。

 歩きながら松崎町の空が広いのにはじめて気が付いた。もしかしたら、やっとゆっくり空を見上げる年齢になったのかも知れない。
 あの頃はふたりとも下ばかり見ながら、忙しく毎日を過ごしていた。
 ホテルに戻り、真っ赤に染まる夕焼けを、私はいつまでも眺めていた。

夕暮れ

沢野ひとしさんのエッセイ【もう一度あの町に行こう】は、ほぼ隔週水曜日に掲載します。

文・イラスト:沢野ひとし(さわの ひとし)/名古屋市生まれ。イラストレーター。児童出版社勤務を経て独立。「本の雑誌」創刊時より表紙・本文イラストを担当する。第22回講談社出版文化賞さしえ賞受賞。著書に『山の時間』(白山書房)、『山の帰り道』『クロ日記』『北京食堂の夕暮れ』(本の雑誌社)、『人生のことはすべて山に学んだ』(海竜社)、『だんごむしのダディダンダン』(おのりえん/作・福音館書店)、『しいちゃん』(友部正人作・フェリシモ出版)、『中国銀河鉄道の旅』(本の雑誌社)、絵本「一郎君の写真 日章旗の持ち主をさがして」(木原育子/文・福音館書店)ほか多数。趣味は山とカントリー音楽と北京と部屋の片づけ。電子書籍『食べたり、書いたり、恋したり。』(世界文化社)も絶賛発売中。
Twitter:@sawanohitoshi


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沢野ひとし【もう一度あの町に行こう】
沢野ひとし【もう一度あの町に行こう】
  • 6本

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