note_第33回_素早いペットボトル

素早いペットボトル/新井由木子

 坂道ばかりの島で、母に見守られながら、わたしは転がるペットボトルを追いかけていました。

 一つの山を中心に据え頂のツンと尖った、その小さな島の名は利島(としま)。わたしの故郷式根島と本州の間にあります。
 式根島に帰るべく東京湾から乗る船は、利島付近に来ると、強い潮流によって、いつでも必ず強く揺れます。少しでも風が吹けば更に大きく揺れ、やがて『利島は海上の状態が悪いため欠航いたします』のアナウンスが流れることも多数。手すりにつかまらねば転がってしまいそうな揺れの中、無理をして甲板に出ると、緑色のキスチョコにも似た利島が、後ろに遠ざかっていくのが見えるのでした。

 なかなか着岸できないと思うからか、何百回と目にしているのに立ち寄ったことがないのがもどかしいのか、利島行きはいつしかわたしの念願となっていました。そしてとうとう、昨年のお正月、式根島から帰る日程を繰り上げて利島に寄る宣言をすると
「お母さんも行ってみたーい!」
 すぐに母が手を上げました。母と2人だけで旅をするのも、初めてのことです。

 その日は幸いベタ凪でした。無事に利島港に降り立つと島の最高峰である宮塚山が目前にそびえており、「来たねえ!」と旅行気分で母と顔を見合わせます。
 早速民宿からお借りした軽トラでドライブに出かける母娘。わたしは運転免許を持っていないので、運転は母の役目です。

 車窓から見える視界はどこまでも椿の森です。利島全体が椿に覆われているのは、実から採れる上質の椿油を利島の重要な産業としているため。大切に手入れされた森は陽の光が十分に差し込んで明るく、椿の白い幹が光ります。落ち葉一つなく掃き清められ、清潔で軟らかい焦げ茶色の土と苔の緑で塗り分けられた地面は、島が尖っているためにどこも斜面になっており、それが視線の届く限り続いているのです。

 さて、ツンと尖った利島は坂道ばかりですが、島の中心にそびえる宮塚山に向かう道はますますの傾斜で、セスナ機が飛び立つような角度で車は進みます。
 古いタイプの軽トラはハンドルが重いだけでなく、止まる場所は全てが坂道のため、かけねばならぬサイドブレーキも、とても硬そうです。再発進するにも、思わずヨイショッと声が出る。なんだか、母の力で道を登っていくようです。でかい体で隣に座っているだけで、非常に肩身がせまい!
 休み休み行くことにしようと、わたしたちは、ふと現れた貯水池で一息入れることにしました。

 特に期待はしていなかったのですが、ほんの八畳くらいの小さな貯水池には睡蓮が一面に浮かんでいて美しかった。開発された観光地ではないからこそ、たくさん見るところが無いからこそ、その小さな貯水池だけを存分に見ることができるんですね。こういうのって、とっても贅沢。
 わたしたちは、池の周りの岩はどれがグラグラしているとか、鳥よけの糸が上手に張ってあるねとか、細かなところまで鑑賞して過ごしました。

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 さて、事件はその貯水池を出発した直後に起こりました。再び急斜を進み始めた車の中で急に叫ぶわたし。
「池に携帯置いてきちゃった!」
 反射的に母がブレーキをかけて車を止めたとほぼ同時に、無駄にあせっているわたしが車のドアを開けました。急斜に加えてブレーキのかかった衝撃で、フロントガラスの手前に置いてあったペットボトルが転がり落ち、そのままわたしの開けた車のドアから、わたしより先に飛び出して行きます。

 まるで、生命を得たかのようなスピードで坂を走り出すペットボトル。
 ウズラやセキレイやチドリなど、地上を走る鳥族にすばしこいのがおりますが、正にあんな感じです。更にそのペットボトルは角形でなく円柱の形をしているので、何の負荷もなくスピードを上げていきます。
 逃げられると追いかけたくなる心理が働いたのでしょうか。冷静に考えるとそんなに急いで追わなくても良さそうなものですが、その時はとにかくペットボトルを捕まえることしか考えられませんでした。

 必死に追いかけ、走るわたし。急な坂道を走って降りるのは、今にもつんのめりそうな恐怖がありました。
 もしも転んだらわたしも円柱の形をしていますから、そのまま転がり続けて森を突き抜け、断崖絶壁から海に飛び出す自分の姿が脳裏をよぎります。
 しかしペットボトルは何の気まぐれか、途中から少しだけ角度をつけて走りだし、道の端にある縁石に当たって止まりました。
 おとなしくなったペットボトルを手に振り返ると、母は車の外に出て笑っていました。

「利島に限っては、ペットボトルは角形が良いんじゃないかね」
 母との初めての旅の感想は、コレでした。でも、すごーく楽しかったです。

(了)

※世界文化社delicious web連載【まだたべ】を改題しました。

文・イラスト:新井由木子(あらい ゆきこ)/東京都生まれ。イラストレーター・挿絵描き。埼玉県草加市にある書店「ペレカスブック」店主。挿絵や絵本の制作のかたわら書店を営む。著書に『誰かの見たもの 口伝怪奇譚』『おめでとうおばけ』(大日本図書)、『まんじゅうじいさん』(絵本塾出版)ほか。「この世はまだ たべたことのないものだらけ。東京に近い埼玉県の、とあるカフェの中にあるペレカスブックで、挿絵や絵本を作りながら本屋を営んでいます。生まれ故郷の式根島と、草加せんべいの町あたりを行き来しながら、食べること周りのことを書いてゆきます」
http://www.pelekasbook.com
Twitter:@pelekasbook