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兄が教えてくれた新宿・紀伊國屋書店とカキフライの楽しみ/沢野ひとし

 初めて入ったレストランは、新宿三越の横の西洋料理店である。私が小学六年生で、兄は高校三年生だった。
 兄はカキフライを二人分注文して、紀伊國屋書店で買った洋書を開き、ブックカバーをしげしげと見つめていた。
 都立の優秀な高校に入った兄は、山岳部に入部して休日になると山へと出かけた。家に居るときは机の前で勉強に明け暮れていた。

 カキフライを食べながら、兄から洋食のフォークとナイフのマナーを教わった。
 温かい料理から口に運ぶ。カキフライはナイフを入れたそばから美味しさが逃げてしまうので、一つずつ半分に切って食べる。目玉焼きは少し経つと固まるから、外側の白身から食べ始めて、黄身は後からナイフを入れる。黄身を半分に切ってカキに乗せて食べても美味しい。
 ライスはフォークの腹に乗せて、ナイフで軽く押さえる。フォークの背は豆類を潰すときに使う。だから背にライスを乗せてはいけない。
 最後に兄は「カキフライは日本で作った洋食だよ」と言ってクスリと笑った。

紀伊國屋書店

 兄が紀伊國屋書店に行くときは必ずついて行った。木造二階建ての室内はいつも静寂に包まれていた。地図コーナーと二階の洋書の棚の前で兄はじっくりと時間をかけていた。
 私は児童書を見て歩き、飽きると書店を出て、路地の入口で犬を売っているショーウィンドを眺めるのが大好きだった。ガラス面に顔を付けると、仔犬が尻尾を振って近づいてくる。

 こういうときの兄との待ち合わせ場所は、書店の前にある喫茶店で、小学生が一人でポツンと入って行っても、店の人から不審そうな目を向けられることはなかった。「兄を待っています」と言ってクリームソーダを注文するのだった。青いソーダ水にはこれからの夢が広がっている気がした。

回廊


 兄はおしゃれな人で、野暮ったい詰め襟の学生服など一度も着ることはなかった。服装に関して自由な学校だったので、いつも紺のブレザーか派手な黄色いセーターを着て通学していた。
 家が洋服屋だったので、母は兄のためにロシア人が着るルパシカのような服を作っていた。

 新宿三越裏の燃料店に巨大な石炭の固まりが展示されていた。その店の前を通るたびに興奮して見つめていた。その横には外国製の洗練されたストーブも飾ってあった。
 兄は「もうすぐ石炭の時代は終わり、石油が取って代わる」と自信満々に言っていたが、私は黒いダイヤの全盛が永遠に続くと頑なに信じていた。

石炭宇部産業


 新宿駅から夜行に乗って、兄と何度か日帰りの山登りに行った。ハンチングを被り、列車を待つホームの階段下で、兄は山の歌を独り言のように歌っていた。
 高校から大学に進むと、兄は熱に浮かされたように学生運動に没頭し、山に行くことはなくなった。
 そして兄は大学院に進んで経済学の道を歩み、やがて結婚した。しかし学者の世界は厳しいのか、しばらくの間は高校教師をしているお義姉さんに食わせてもらっていた。
 やがて兄とは母親の墓参りのときぐらいしか会うことはなくなり、次第に疎遠になっていった。
 あれほど優秀だった兄だが、何年経っても准教授より上に上がることはできなかった。論文が書けずに悶々として、酒の量が一気に増えていった。

郷愁の新宿


 その後、何かの機会で兄に会うたびに、体が一回り小さくなった感じで血色もよくなかった。蔵書が多く、家の近くにマンションを借りたのはいいが、家の者の看視が届かなくなり、朝からウィスキーを呷るような生活になってしまった。
 段々と体が衰弱し、ある日咽頭癌が見つかって治療したが、六十四歳の若さであっという間に亡くなってしまった。

 新宿の町を歩いたり、紀伊國屋書店に行くと、今でも兄のことを思い出す。そして秋になり、レストランにカキフライが出始めると、待ってましたとばかり注文する。カキフライにパンは合わない。絶対にライスである。さらにどんな店でもカキフライに失敗はない。

文・イラスト:沢野ひとし(さわの ひとし)/名古屋市生まれ。イラストレーター。児童出版社勤務を経て独立。「本の雑誌」創刊時より表紙・本文イラストを担当する。第22回講談社出版文化賞さしえ賞受賞。著書に『山の時間』(白山書房)、『山の帰り道』『クロ日記』『北京食堂の夕暮れ』(本の雑誌社)、『人生のことはすべて山に学んだ』(海竜社)、『だんごむしのダディダンダン』(おのりえん/作・福音館書店)、『しいちゃん』(友部正人作・フェリシモ出版)、『中国銀河鉄道の旅』(本の雑誌社)、『ジジイの片づけ』(集英社)、絵本「一郎君の写真 日章旗の持ち主をさがして」(木原育子/文・福音館書店)ほか多数。趣味は山とカントリー音楽と北京と部屋の片づけ。3月15日に最新刊『真夏の刺身弁当』(産業情報センター)刊行。電子書籍『食べたり、書いたり、恋したり。』(世界文化社)もぜひご覧ください。
Twitter:@sawanohitoshi