note_第28回_路上にての巻

路上にて(かなしみのマグロ)/新井由木子

 路上にて。人々はいつもどこかへ向かう途中です。夢が達成される目的地こそが楽園だと思っていたけれど、実はそこへ至るまでの険しい山道や、凍えるアイスバーン、灼熱の獣道こそがかけがえのないものだったり。時には目的地が蜃気楼のように消え失せ、道の上に呆然と立ち尽くしたり。路上にはいつもドラマがあり、人々の汗と涙とおかしみが、足跡として残されているのです。

 わたしの一番古い路上での思い出は、式根島に暮らしていた幼い頃のこと。
 島の教員住宅に暮らす新井一家は、何かと隣のおばさんのお世話になっていました(思いつき書店vol.018参照)。

 働く母に代わり、赤ちゃん時代は日中ずっと面倒を見てもらい、おばさんにトイレトレーニングをしてもらったのも覚えています。それから保育園・小学校時代と、例のテニスコート付きの家(思いつき書店vol.013参照)に引っ越すまで、放課後はいつもおばさんの家で過ごしていました。

 隣といっても人口の少ない島のことですから、住宅から小さな丘を迂回して続く、細く白い一本道を10mほど行った先に、おばさんの家はありました。道が白いのは、式根島特有のガラス質の浜の砂が風で巻き上げられるのか、道の上一面に自然と敷き詰められているからです。
 そして何か美味しいおかずができると、母は必ずおばさんの家に持っていくようにと、わたしか妹をおつかいに出すのでした。

 その日、晩御飯におばさんの家に届けるように言付かったのは、マグロのお刺身でした。
 式根島の夜は、外に出れば街灯など人工の光のない暗闇でしたが、月の光が白い砂の道をぼんやり浮き上がらせており、懐中電灯などなくても、いつも難なくおばさんの家まで走っていき、帰ってこられるのでした。
 当時のわたしは、人は頑張れば飛べるのではないかとなぜか思っていたので、常に力一杯の跳躍で長いスキップのような走り方をしていました。普段でも充分楽しい跳躍でしたが、夜のおつかいとなると、なんだかスリリングで余計に心も躍ります。暗くて足元がよく見えないことなどおかまいなく、その日も胸にしっかりと皿を抱いて跳躍を続けるのでした。

 さて、子どもが夜のおつかいにはしゃぎながら出かけたら、どういうことが起こると思いますか? 毎回毎回無事に帰ってこられると思いますか?
 そうです。転ぶのですね。たまには。

 舗装されていない道路は、隣接する森から進入してきた木の根を砂の下に隠していました。今までことごとくその根と違う場所に着地していたことは幸運だったのです。
 幼いわたしは次の跳躍へと羽ばたく寸前、木の根に足先を引っ掛けて一瞬宙に浮かぶと、ホームベースに滑り込む野球のランナーのごとく、スライディングで地面に転がりました。

 大切なマグロの皿が真っすぐに前方に飛んでいくのが見えます。すぐに立ち上がり皿に駆け寄る間には、どうか無事でありますようにとか、時間よ戻れとか、切ない願いがいくつも浮かびましたが、皿から飛び出してスライディングしたマグロの刺身が、その願いを粉々に打ち砕くのでした。

 勝手口からおばさんを呼んで、砂まみれのマグロの皿を渡すと、わたしは何も言わずに家に帰りました。
 バレなかったはずはないのに、誰もそのことについて、わたしに何も言いませんでした。おばさんがあえて伝えなかったのか、おばさんに事情を聞いた母が黙っていたのか、そのあたりは謎のままです。

 それからも人生の旅路は続き、数え切れない程の失敗をしてまいりました。失敗について愛情のある指摘をくださる方々にも数多く出会いましたが、失敗したわたしの姿を見て、黙って立ち上がるのを待っていてくださった方々もたくさんいたことと思います。

 道は歩けば歩くほどに、自分自身に鍛錬が積まれ、失敗にめげないたくましさというか、ずうずうしさも身につきました。けれど失敗がヒリヒリと痛かった幼い時代の記憶は、今でもふるさとのその道を歩く度、当時のままに心の痛みとして蘇るのでした。

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(了)

※世界文化社delicious web連載【まだたべ】を改題しました。

文・イラスト:新井由木子(あらい ゆきこ)/東京都生まれ。イラストレーター・挿絵描き。埼玉県草加市にある書店「ペレカスブック」店主。挿絵や絵本の制作のかたわら書店を営む。著書に『誰かの見たもの 口伝怪奇譚』『おめでとうおばけ』(大日本図書)、『まんじゅうじいさん』(絵本塾出版)ほか。「この世はまだ たべたことのないものだらけ。東京に近い埼玉県の、とあるカフェの中にあるペレカスブックで、挿絵や絵本を作りながら本屋を営んでいます。生まれ故郷の式根島と、草加せんべいの町あたりを行き来しながら、食べること周りのことを書いてゆきます」
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Twitter:@pelekasbook