note_第59回鬼とケルベロスと般若

鬼とケルベロスと般若/新井由木子

 ある人がわたしに対してたいへん怒っていると聞いて、わたしはお詫びに出かけていきました。
 とあるイベントを計画し、関係者各位にご挨拶をした際、「ここから先は書面でのご挨拶が良いだろう」と勝手に判断したのがよくなかった上に、文面でのご説明も言葉が足りていなかった、というのが原因でした。
 その日、うららかな日差しと同様に、しっかり叱られようと覚悟しているわたしの心は穏やかでした。というのは、今までの人生でさんざん怒られてきた経験から、人とはいくら怒っていても、心からお詫びをすれば許してくれる存在だと思っていたからです。
 怒りの向こうには、ミスをしたわたしに与えられるべき教訓が必ずやあり、わたしを励ましてくれる気持ちも必ずや見られ、最後には許していただけるものだと、わたしはどこか呑気に高をくくっていたのでした。

 その会社を訪れるのは初めてでした。無人の受付で大きな声で挨拶を繰り返すと、社長が出てきました。まだ自己紹介もしていないのに、どこか最初から怒っているように見えます。
 恐る恐るわたしの名前と、謝りに来たという用件を伝えると、元々しかめ面だった社長の形相が更に険しくなり、怒りで目がみるみる真っ赤に充血しました。これはただごとではないと、ようやく気づいたわたしは、多分もう泣きそうな顔になっていたと思います。

 社長は真っ赤な目でわたしを睨みながら、目の前の安楽椅子に深く腰掛けると煙草に火をつけ、長々と煙を吐き出しました。これから怒るぞ、という雰囲気がビシビシ伝わってくる、緊張感に満ちた沈黙です。
 そして、そもそもお前はどこの何者なのだとか、一体どういうつもりでイベントをやろうとしているのかと、聞いてくるのですが、視線は厳しく声は低く響き、鬼というものがいるのなら、正にこのようなものだろうと思いました。睨まれているだけで、こちらの心臓が石になってしまいそうな迫力なのです。
 わたしは、やりたかったことの真意と、文面の足りなさについて反省の言葉を述べ続けました。滅多に泣かないわたしですが、この時は不覚にも、じわじわと涙がこみ上げてきました。反省の涙でも、後悔の涙でもありませんでした。人間が怖くて泣くというのは、記憶にあるかぎり初めての体験でした。

 しばらくすると、社長の後ろに飼い犬らしい黒いワンコが、別室から走って現れました。ご主人である社長が怒っている相手は、ワンコにとっても敵です。ワンコはわたしに向かって、激しく吠えました。鬼のように怖い社長の後ろで吠える黒いワンコは目が赤くて、小型犬ではありましたが、まるで地獄の番犬ケルベロスそのものに見えました。
 どのくらいたったのでしょうか。めげずに謝り続けつつ、ふと見ると、社長の目の充血が収まり、やっと怒りが落ち着いてきたように見えたのは、気のせいではなかったと思います。しかしその時、運悪く後ろから現れたのは、もっと怖い般若のような奥さんでした。奥さんになんと言われたかは、ここに書いただけでまた泣いてしまいそうなので書きませんが、とにかくその奥さんの一喝により、話は終わりました。

 呆然と、帰路につくわたし。この一件以来、わたしの身体が一回り小さくなったと、当時評判でした。
 あれから何年も経ちました。もう少し人間が成長したら改めてご挨拶に伺いたいと思っています。なんという仕事関連か、どこの誰か、いつのことだったのかは聞かないでください。

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(了)

※世界文化社delicious web連載【まだたべ】を改題しました。

文・イラスト:新井由木子(あらい ゆきこ)/東京都生まれ。イラストレーター・挿絵描き。埼玉県草加市にある書店「ペレカスブック」店主。挿絵や絵本の制作のかたわら書店を営む。著書に『誰かの見たもの 口伝怪奇譚』『おめでとうおばけ』(大日本図書)、『まんじゅうじいさん』(絵本塾出版)ほか。「この世はまだ たべたことのないものだらけ。東京に近い埼玉県の、とあるカフェの中にあるペレカスブックで、挿絵や絵本を作りながら本屋を営んでいます。生まれ故郷の式根島と、草加せんべいの町あたりを行き来しながら、食べること周りのことを書いてゆきます」
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