note_第42回_ホヤの脅威

ホヤの脅威/新井由木子

 この春、離島に暮らす母が白内障の手術のために上京し、そのまましばらく草加の我が家に滞在していました。
 白内障の手術は日帰りでも済んでしまう昨今ですが、島には眼科がないので、術後に目にゴミでも入ると1日かけて本州まで来なければなりません。また、海が時化(しけ)たりして本州に来られなかったら、大変なことになりかねません。そんな万一のトラブルにそなえて万全を期すため、2泊3日の入院と、我が家に一カ月間の滞在をすることにしたのです。

 片方の目の手術が終わった時点でお見舞いに行くと、母はもう入院友達を作っており、食事が豪華だとか、窓からの景色が良いとか、なんだか楽しそうです。
 安心というか拍子抜けしたのもつかの間、退院時に迎えに行こうとすると、母からメールがありました。
「手術が終わったら、お母さん、急に老けちゃったの」
 術後の様子に安心していただけに、心配の針がピンと跳ね上がります。
 年齢を重ねると筋肉痛も数日遅れで発症するように、ダメージは遅れてくるのでは。やはり手術って疲れるものなのでは。必要ならもう少し入院したほうが良いのでは。
 などなど考えながら病室のカーテンを開けると、そこにはいつもどおりの可愛い母がいました。むしろ目が黒く澄んで、今までよりも別嬪(べっぴん)さんなくらいです。
「ぜんぜん老けてないじゃん」
「いやいや、こんなにシワシワになっちゃって、大変よ」
 お母さん、それは目が良く見えるようになったせいだよ。

 その後は安静にしつつ、草加で街の暮らしを楽しむ母でした。父の衣服を買ったり、畑仕事に必要なものを探しに行ったり。目の安全のために、出かける時は専用のゴーグルをつけていきます。
 術後数日間の禁酒が解かれると、好きな日本酒と共に、本州でしか食べられないものを楽しみます。海の幸に恵まれた島から来ているのに、母が食べたいのは、やはり海のものです。黒潮に囲まれた暖かい島の海では獲れない、白身の魚やウニやカニやカキ、そして母の顔が特に輝くのは、ホヤと向き合った時です。

 ある夜、ペレカスブックの仕事を終わらせて帰ると、母が嬉しそうな声で台所から呼びました。
「今日はね、スーパーにホヤがあったの!」
 まな板に乗せられている丸々としたホヤ。わたしに切れといいますが、やり方がわかりません。まごまごしていると、再び母が包丁を取り上げ
「こんなもの、適当にやればいいんだよ」
 ホヤをまな板に押さえつけ、その胴体の真ん中に強く包丁を押し当てます。

 その時です。
 ホヤが上の部分にある小さな穴から、勢いよく水を吹き出したのです。生きていたのでしょうか? そしてその水が、術後安静の必要な、母の目を直撃したのです。
「あああっ」
 悲鳴をあげる母。
「なんでゴーグルしてないんだよ!」
 なぜか怒るわたし。

 しかし幸運なことに、吹き出された水はわずかに目からずれていました。呆然とするやら安心するやら、ホヤにちょっと頭にくるやら。こういう時は冗談でも言ったほうが良いかと思い
「そういえば手術の手引きに、術後はホヤの調理はダメって書いてあったな」
 と言うと
「ええッ! 本当!? 読んでなかった!」
 こんなことを真に受ける母。人は驚いている時には心のガードが低くなるのですね。

 その後も、白内障手術の注意書きに、ホヤの調理に注意と書くべきだと零(こぼ)す母でした。おっぱいアイスとかも危ないかもしれません。

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(了)

※世界文化社delicious web連載【まだたべ】を改題しました。

文・イラスト:新井由木子(あらい ゆきこ)/東京都生まれ。イラストレーター・挿絵描き。埼玉県草加市にある書店「ペレカスブック」店主。挿絵や絵本の制作のかたわら書店を営む。著書に『誰かの見たもの 口伝怪奇譚』『おめでとうおばけ』(大日本図書)、『まんじゅうじいさん』(絵本塾出版)ほか。「この世はまだ たべたことのないものだらけ。東京に近い埼玉県の、とあるカフェの中にあるペレカスブックで、挿絵や絵本を作りながら本屋を営んでいます。生まれ故郷の式根島と、草加せんべいの町あたりを行き来しながら、食べること周りのことを書いてゆきます」
http://www.pelekasbook.com
Twitter:@pelekasbook