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もう一度行きたい清い水の町、松本/沢野ひとし

 町の中に井戸や水路がある土地に惹かれる。清い水を見ると、こちらの心も澄んでくる。初めて松本の町を散歩したのは、北アルプスに登った帰りだった。五十年ほど前のことである。

 高砂通りを歩く。「あっ、こんな所に大きな井戸が」。近寄るとそこは『源智の井戸』と呼ばれていた。水質が良いのか豊富に湧き出る水を、近所の夫人や子どもたちがやって来ては、大きなペットボトルに一心不乱に汲んでいた。

 順番待ちをしているおかみさんに声をかけると、その水は江戸時代からずっと枯れることがなく、庶民の生活用水や酒造用水として利用されてきたと、教えてくれた。
 一口飲んでみたときのおいしさは、忘れられない。癖がなく、まさしく「甘露」であった。

 一帯には徳武の井戸、蔵の井戸など、いたるところに湧水があり、今も人々の暮らしを潤している。ソバや酒は水が命といわれるが、松本にはソバの名店が多く、信州の酒は天下一品であるのも頷ける。

松本に行こう

 一度好みの店を見つけると、私は途切れることなくその店に通う。ソバは中町通りの『野麦』と決めている。外観はいかにもソバの名店といった造りではなく、ごく普通の店構えで、働いている人も親切で気取りがない。九割ソバのざる大盛りをすすり上げては、毎度感激している。素朴な味は十年食べ続けても飽きることがなく、頷くばかりである。

 その後は決まって女鳥羽(めとば)川沿いの『珈琲まるも』でひと休みする。使い込まれた松本民芸のテーブルや椅子が美しい。この家具に憧れ、同じバタフライテーブルと椅子を購入し、現在も自宅で毎日使用している。

 ホテルに泊まった時はここに来て、厚切りトーストとサラダ、コーヒーの朝食をとることにしている。モーツァルトの曲を聴きながら、地元の新聞と香りのいいコーヒーを前にしていると、松本の町により愛着が湧いてくる。

ミュージックの町

 夜は居酒屋『しづか』が定番である。地元の知人とゆったり酒を飲みかわし、今後の仕事や旅の夢を語る。
 どこであれ、狭い酒場は苦手である。目の前に立って包丁を握っていられると、落ち着きがなく畏縮してしまう。その点、この店はゆったりとしていて、居心地がとてもいい。

同じ人に会う

 宿は近くの『花月』が周辺も静かでくつろげる。ホテルの前に古本とカフェの『想雲堂』があり、ここで信州の本を買い揃えることも多い。「もう一杯」とウイスキーの水割を注文し、本を選びながら待つのも、旅先ならではの楽しみである。
 松本は水、本、ソバ、そして酒の町と認識している。

タヌキもキツネも多い

イラストレーター・沢野ひとしさんが、これまでの人生を振り返り、今、もう一度訪れたい町に思いを馳せるイラスト&エッセイです。再訪したり、妄想したり、食べたり、書いたり、恋したりしながら、ほぼ隔週水曜日に更新していきます。

文・イラスト:沢野ひとし(さわの ひとし)/名古屋市生まれ。イラストレーター。児童出版社勤務を経て独立。「本の雑誌」創刊時より表紙・本文イラストを担当する。第22回講談社出版文化賞さしえ賞受賞。著書に『山の時間』(白山書房)、『山の帰り道』『クロ日記』『北京食堂の夕暮れ』(本の雑誌社)、『人生のことはすべて山に学んだ』(海竜社)、『だんごむしのダディダンダン』(おのりえん/作・福音館書店)、『しいちゃん』(友部正人作・フェリシモ出版)、『中国銀河鉄道の旅』(本の雑誌社)、絵本「一郎君の写真 日章旗の持ち主をさがして」(木原育子/文・福音館書店)ほか多数。趣味は山とカントリー音楽と北京と部屋の片づけ。最新刊『ジジイの片づけ』(集英社)が好評発売中。電子書籍『食べたり、書いたり、恋したり。』(世界文化社)もぜひご覧ください。
Twitter:@sawanohitoshi