note_第45回_涙の訓戒

涙の訓戒/新井由木子

『こういうことをしてはいけない』と言ってくれる、人生の先輩方の訓戒は大切です。
 しかし人間とは弱いもので、頭ではわかっていても、つい、守れないことがあるものです。そして結局は『守っておけば良かった』と心から後悔することになり、ついには自らがその訓戒の継承者となるのです。

 例えば『酒をチャンポンして呑んではいけない』とはよく聞かれる訓戒ですが、酒の席で気分が大きくなり、破られてしまいがちです。そして破戒の苦しみ(二日酔い)を知った人々により、実感のこもった訓戒の継承がされていくのです。

 ところで、わたしの破戒の痕跡は、前歯にあります。
『ちゃんと歯を磨かないと、虫歯になる』と、大人たちに強く言われ、ホントかな、と疑った愚かなわたし(小学生)は、わざとぞんざいに歯磨きをするという、信じられない破戒行動に出たのです。当然のことながら、あっという間に虫歯になりました。更にその歯は前歯で永久歯だったために、その後の人生で多大な苦労を背負う羽目になったのです。

 今ほど歯科の技術が向上していなかった30年以上も前のこと、当時の詰め物はしょっちゅうはずれ、治療を繰り返しながら高校生になった頃には、前歯の穴はとても大きくなっていました。
 そして詰め物を治しに歯医者さんに行くたびに、新しい虫歯が見つかったり、前に治療したところをやり直したほうが良いと言われたりして、数カ月にわたって通院することになるのが常で、それは非常に面倒でした。重ねて、ドリルの音が不快だし、痛いし、痛かったら手を上げなさいと言うくせに、手を上げても痛いのをやめてくれない歯医者さんが、わたしは心の底から嫌いになりました。

 とうとうどうにもならなくなった前歯が差し歯になったのは、二十歳になった頃のことでした。
 差し歯ならもう虫歯になりません。これで安心と思っていると、あにはからんや、差し歯はたまにスッポリと抜け落ちることがあるのです。その時点ですぐに歯医者さんに行けば良いのですが、大嫌いがゆえに、出来る限り先延ばしにしたいのです。なので、差し歯が抜けてから数日間、時には1週間以上、カポッと外れたカップ状の差し歯を、芯になっている元の細い歯にその場しのぎで被せ、なるべく口を開かないようにして過ごすのでした。

 たとえ差し歯を入れ直した後でも、いつ何時抜けるかもしれないと思うと、いつでも完全に安心はできませんでした。わたしは花の二十代のほとんどを、差し歯が抜けるかもしれないことを念頭に置き、抜けている時には口を巾着のようにすぼめて過ごしたのです。
 それもこれもあの時に、大人たちの訓戒を聞かなかったためです。

『ちゃんと歯を磨かなければならない』
 これは、わたしが人生の先輩として皆さんに送る、悔恨の涙の詰まった訓戒です。
 今では、身体の成長が止まったため歯茎が安定しているのか、最後にかかった歯医者さんが上手だったのか、前歯で苦しむことはなくなりました。しかし、訓戒を軽んじたために無駄な苦労をしてきたことは、わたしの人生に深く爪痕を残しているのです。

『犬に吠えられたら、背中を見せて逃げてはならない』
『人に誕生日を聞かれても、安易に教えてはならない』
『人の噂をする時は、後ろに注意しなければならない』
『岩の割れ目に頭を突っ込んではならない』

 これらは、わたしの人生の中で生まれたオリジナルの訓戒たちです。ちょっと興味のある方は破戒していただき、継承者になっていただきたいです。

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(了)

※世界文化社delicious web連載【まだたべ】を改題しました。

文・イラスト:新井由木子(あらい ゆきこ)/東京都生まれ。イラストレーター・挿絵描き。埼玉県草加市にある書店「ペレカスブック」店主。挿絵や絵本の制作のかたわら書店を営む。著書に『誰かの見たもの 口伝怪奇譚』『おめでとうおばけ』(大日本図書)、『まんじゅうじいさん』(絵本塾出版)ほか。「この世はまだ たべたことのないものだらけ。東京に近い埼玉県の、とあるカフェの中にあるペレカスブックで、挿絵や絵本を作りながら本屋を営んでいます。生まれ故郷の式根島と、草加せんべいの町あたりを行き来しながら、食べること周りのことを書いてゆきます」
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