note_第51回草加の帰り道

草加の帰り道/新井由木子

 その昔、草加は、江戸と日光を結ぶ直線上にありながら、日光街道は草加を大きく避けて造られていました。草加の辺り一帯が湿地帯で、道を造るのが困難だったためです。
 街道を整備し草加の名がつけられた起源は、次々に発見される歴史資料や専門分野からの見識により、いくつかの説があります。民話的なものから、検証を重ねられつつある説まで色々ですが、いずれにせよ、たくさんの人々がここで生き、力を合わせて街の存続のために汗を流したことは、街道のそこここに実際に見てとれます。
 草加馬車鉄道の跡(思いつき書店vol.047参照)、何度も植え替えられたという松並木、お店の名前に残る大正時代の賑やかさ(思いつき書店vol.031参照)などなど。
 どの時代にも、人々の確かな時間があったことが、リアルに感じられます。

 歴史を勉強するにつれて、どんどん好きになる草加宿場町通り。気がつけば、わたしの過ごしてきた草加での時間の中には、常に生活道路である宿場町通りがあるのでした。

 離婚後、娘も絵描きになる夢も両方とも手放さないと決めた20年前。生活は慎ましく、そしていつも時間が足りず、家の中も頭の中も、しっちゃかめっちゃかでした。

 幼い娘を保育園に送る朝も、行きたくないとグズるのを説得する時間(というか精神的余裕)もなく、問答無用で自転車に乗せていました。娘の泣き声がサイレンのように尾を引きながら、自転車は通りを疾走していたのです。寝坊により朝ご飯が間に合わなかった時には、自転車で移動中に食べられるようにと、たまたまあったカマボコを握らせて出発したこともありました。

 草加では、小学生になると通学班を組んで登校するのがきまりで、通学時間帯になると宿場町通りは黄色い帽子の子どもたちの列で、黄色い川のようになります。
 娘は学年が進むにつれ、何事にも安易に迎合しないという性格がはっきりとしてきて、通学班を勝手に抜け出て、自分で新しい班を作ったりしていました。当時のわたしは、へえ、と思っただけで、それがどんな葛藤の末にあったことなのか、思いを寄せたりすることもありませんでした。
 あまりにもガサツな子育てです!
 今、おばあさんになっても良いような年齢になって、初めてガサツだったと気づく体たらくです。

 娘はそれから可憐な女子高校生を経て、大学生ともなれば飲みすぎて終電を逃し、深夜の宿場町通りを数駅分歩いて帰ってくることを繰り返し、そして今では立派に社会人です。
 こんなにガサツな子育てをしたのに、ガッツのある良い子に育ちました。今は研修のために都内で寮暮らしをし、わたしはしばらく一人暮らしの身となりました。

 思い出されるのは、娘の幼い頃。パート勤めの後に娘を保育園に迎えに行くといつでも日は落ちていました。夜空に浮かんだ月をはっきり見せたくて、街灯の無い小道を選んで自転車を走らせた帰り道。大きな月は丸く白く、道の向こうには宿場町通りが明るく暖かい色に光っていました。

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(了)

※世界文化社delicious web連載【まだたべ】を改題しました。

文・イラスト:新井由木子(あらい ゆきこ)/東京都生まれ。イラストレーター・挿絵描き。埼玉県草加市にある書店「ペレカスブック」店主。挿絵や絵本の制作のかたわら書店を営む。著書に『誰かの見たもの 口伝怪奇譚』『おめでとうおばけ』(大日本図書)、『まんじゅうじいさん』(絵本塾出版)ほか。「この世はまだ たべたことのないものだらけ。東京に近い埼玉県の、とあるカフェの中にあるペレカスブックで、挿絵や絵本を作りながら本屋を営んでいます。生まれ故郷の式根島と、草加せんべいの町あたりを行き来しながら、食べること周りのことを書いてゆきます」
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