note_第24回_タイムマシーン

タイムマシーン/新井由木子

 わたしがおむすびとおみそしるを作りに行っているsoso cafeは、オープンしてから初めての冬を迎えています。

 朝焼けの中、自転車を走らせていた出勤も、冬の間は同じ時間でもあたりは真っ暗。朝ではなくて確実に夜の様相です。
 そんなほぼ人気のない真っ暗な街道の二つの地点で、毎朝必ず同じ人物と交差します。1人目は杖をついているのに、すごいスピードで移動するおじいさん。2人目はわたしと同じように、暗闇にライトを光らせながら自転車を飛ばすパーマヘアのおばさんです。

 早朝の出勤には、寸分の狂いもない時間配分が必要です。目覚ましが鳴り布団の中でモゾモゾする時間は0分。飛び起きて2分後には顔を洗っています。水道水が温まるまでは待てないので、もちろん冷水です。そして寒いと感じる自分に気がつかないふりをして寝間着を脱ぎ捨て、冷えた下着と衣服を装着。そのまま足早に物干場へ行き、前日に洗濯した割烹着を取り込んで、カバンに詰める。すると、出発2分前のアラームが鳴るので、1分間だけソファでボーっとしてから靴を履き始め、定時のアラームが鳴ると同時に出発。この間わずか15分です。
 きっと毎朝すれ違うお二人も、布団から玄関まで分刻みの行動をしているのでしょう。まるで時計の長針と短針が常に同じ場所でクロスするような、正確な毎朝のすれ違い。彼らのシルエットしか見えませんが、親近感の湧く一瞬です。

 soso cafeに着くと店内はすっかり冷え切っていて、まるで冷蔵庫のよう。朝一番に始めるのは、なにを置いても炊き上がりまで時間のかかる玄米の準備。次にお出汁の世話をしながら白米を研いでガス釜にセットし、おみそしるの具を作ります。
 ご飯が炊きあがる頃にパート仲間のレイコちゃんが来て、ホカホカのまん丸いおむすびを次々と作ります。日本橋の佃煮屋さんから取り寄せた甘い昆布味、梅干し屋さんの梅と鹿児島県・枕崎の鰹節を混ぜて寝かせ、まろやかな味を出した梅味、手作りの甘いおかか味などの定番のほか、季節の野菜のおむすびがあります。
 人参色が明るく美しい人参おむすび。先日デビューしたばかりの、甘くてコリコリしたカリフローレおむすびは、具材にお米の粉を絡ませて揚げ、塩をふるのですが、ご飯とのマッチングが最高の美味しさです。

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 さて、ある日のこと。調理の間、わたしは一つのことをずっと我慢していました。それはお手洗いに行くこと。食べ物を扱う調理中には、どうしても行きたくないのです。
 そしてその日は特別に寒かった。女性ならわかってくれるかもしれませんが、寒い日って膀胱がカチコチに硬くなり、いつもなら多少は我慢できるものも、難しかったりしますよね。その日は調理が終わった時点で、家までは(5分とはいえ)間に合わないな、という感じになっていました。

 タイムカードを押して割烹着を脱ぐと、マフラーと毛糸の帽子を被って、わたしは大急ぎでsoso cafeの離れにあるお手洗い棟に向かうことにしました。上着を着なかったのは、着る時間すら惜しんだのと、上着をたくしあげる一手間が便座に座るまでの時間を数秒遅れさせると計算したからです。流石のわたし。
 更に忘れてはならないのは、万が一にもトイレットペーパーが無いという事態は容認できないということです。もし無かったら、引き返す猶予はありません。よく気がついた、偉いなわたしと自画自賛しながら、小さな事務室の奥からトイレットペーパーを一つ取り、手に持ったまま、お店の正面玄関から外に出ました。

 そこは通勤で駅に向かう人でいっぱいの路上でした。それは当然です。soso cafe は草加のベッドタウンエリアと駅を繋ぐ一番広い道路に面して建っているのです。

 寒い朝、黒っぽい服の真面目そうな群衆が、道いっぱいに広がって駅へと流れていきます。そこに突然、暗い色のワンピースに上着も羽織らず、五本指ソックスに下駄を履き、毛糸の帽子とマフラーだけを身に着けた初老の女が、手にむき出しのトイレットペーパーを一つ持って現れたのです。お手洗い棟に向かうには、駅への通勤客の流れに逆流しなければなりません。つまり通行する全ての人にわたしの正面からの全体像が見えるのです。
 思わず「恥ずかしい!」と叫んで店に引き返すと、優しいレイコちゃんが大慌てでトイレットペーパーを入れるスーパーのレジ袋などを探してくれましたが、下半身が時間の猶予を許しませんでした。わたしはマフラーの中にトイレットペーパーを押し込んで、もういちど路上に降り立つと、人と決して目を合わせないようにしながら、お手洗い棟に向かいました。

 ところで、このお手洗い棟はよそではあまり見ない特別製です。入るとすぐ目の前が壁で右手の奥に便座があり、幅は正に便座一つ分しかない非常に薄い造りの、鉄製のコンテナになっています。

 そんな平べったい、外から見るとほぼ扉だけのような建物が、通勤客で溢れる道路脇の砂利の上に、ポツンとむき出しで置かれているのです。外から鉄製の扉を開くとセンサーが働いて内部に明かりがつくのですが、道のほうから見ると、やけに薄く平べったい箱の一部に、いきなり光る四角い空間が現れ、そこに1人のおばさんが吸い込まれていくという図になります。
「どこか違う時代に行くみたい」とsosoの社長が言いますが、お前が造ったんだろう! と、わたしは言いたい。

 皆さん、あの光る空間におばさんが吸い込まれていく時は、緊急事態です。温かい目で見守ってください、というか見て見ぬふりをしてください。

(了)

※世界文化社delicious web連載【まだたべ】を改題しました。

文・イラスト:新井由木子(あらい ゆきこ)/東京都生まれ。イラストレーター・挿絵描き。埼玉県草加市にある書店「ペレカスブック」店主。挿絵や絵本の制作のかたわら書店を営む。著書に『誰かの見たもの 口伝怪奇譚』『おめでとうおばけ』(大日本図書)、『まんじゅうじいさん』(絵本塾出版)ほか。「この世はまだ たべたことのないものだらけ。東京に近い埼玉県の、とあるカフェの中にあるペレカスブックで、挿絵や絵本を作りながら本屋を営んでいます。料理は上手ではないけれど、生まれ故郷の式根島と、草加せんべいの町あたりを行き来しながら、食べること周りのことを書いてゆきます」
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